REPORT

古地図で探索、「西鶴賀町」のはじまり

2022年9月18日

13:00~15:00

参加者:11人

 

【案内人】滝沢洋将(つばめタクシー㈱代表取締役)

静岡県富士宮市出身。15年前、結婚を機に信州へ移住。まちの歴史や地理、周辺の山々にある植物や地質を調べると、地域ごとの特性や違いがあることに気づきました。そのまちにある趣のある神社仏閣、パン屋や地酒も楽しんでいます。

 

【コース案内文】

ノスタルジックな商店街がある事で知られている西鶴賀町。
9月18日は、西鶴賀町のお宮で秋祭りが開催される日です。
明治時代の古地図を片手に周辺の町から西鶴賀町へと巡り、住人のお話を伺いながらこの町のはじまりから現在に至る過程を探っていきます。

※距離や時間がかかります。歩きやすい靴でお越しください。
※当日の状況により、住人のお話を伺えない場合もあります。

 

【コース】
楽茶れんが館

まちの水源を探る
江戸時代、西鶴賀町周辺は肥沃な土地(権堂田んぼ)として知られていました。その水源、鐘鋳川周辺の見所を紹介します。(武井橋跡・七ツ釜落し)

権堂繁盛記
西鶴賀町設立に重要な役割を果たした権堂町を、今に残る小路・お寺、当時の有名な料亭跡と併せて紹介します。(田面稲荷神社・裏権堂・富貴楼/青雲亭跡)

明治11年の事
鶴賀新地(遊郭)の開業から東・西区の分離、現在に至る町の変遷の紹介や、お祭りが開催されている竹山稲荷神社を参拝します。(秋葉神社・東鶴賀町・竹山稲荷神社)

9軒長屋C9
まちの新たな取組として、ながの建築士会様、まちづくり長野様の取り組んでいる9軒長屋でティータイム。明治時代の工法跡も見られます。

 


 

本日のまちあるきは滝沢洋将さん(つばめタクシー株式会社代表取締役)の『古地図で探索「西鶴賀町」のはじまり』 。

古地図を片手に周辺の町から西鶴賀町へと巡り、町の始まりから現在に至るまでの過程を探っていきます。

 

まずは、楽茶れんが館とその周辺の歴史について。

楽茶れんが館の内壁と外壁でれんがの積み方が異なることをお聞きし、みなさん壁をまじまじと観察されていました。

たしかに内壁はざっくりと積まれているのに対して、外壁は重厚感と華やかさを併せ持ったきれいな積み方をされていることが分かります。

 

 

ご近所の八十二銀行大門支店前では、善行寺周辺で使用されている岩石について説明してくださいました。

こちらの建物には6000万年前の花崗岩である「白御影石」が使用されています。

 

 

続いて武井神社へ。

この神社と西鶴賀には深い関わりがあることが玉垣から分かるそうです。

ということでみなさんで玉垣を一つ一つ見ていると、発見しました!「西鶴賀町」と書かれた玉垣が!

 

 

この近くには「鐘鋳川」という川が流れており、江戸時代には用水として改修され西鶴賀を含む様々な場所へ分水していたそうです。

当時は普通に飲み水としても利用しされていたとか。(一同驚愕!)

武井神社はこの鐘鋳川の水を西鶴賀へと流す上で重要な地点にあり、西鶴賀との深い関わりが分かりました。

 

お次は東町と権堂町の間を流れる鐘鋳川用水の真上へ移動して、明治時代の上水道事情について解説していただきました。

 

 

明治時代に入ると用水の衛生上の問題が挙げられ、鐘鋳川の飲料が禁止されました。赤痢菌やジフテリアといった致死率30%の病原菌が蔓延したことが原因です。

そのため住民たちは「戸隠メノウ沢」を水源とした堰や導水管の設置を計画し、資金不足や近隣住民とのいざこざなどを経て無事に飲み水を確保するに至りました。

飲み水の確保に奔走した先人たちのお話をみなさんじっくりと聞いていました。

 

次に案内していただいたのは、権堂アーケードにつながる路地、いわゆる「裏権堂通り」。

 

 

大通りを挟んで西側が「表権堂」、東側が「裏権堂」と呼ばれているようです。

かつての歓楽街の様子が今も残る、なんとも言えないdeepな雰囲気が漂う路地でした、、、!

 

 

権堂町は弘化4年(1847年)に起きた善光寺地震の翌年には復興が始まり、そこから急速に町が栄えていきます。

そこには「水茶屋」という売春を伴うような背景があり、幕府から差し止め要請も出たものの、さらに明治の「鶴賀遊郭」開業へとつながったとか。

1つの場所にも様々な歴史、背景があることに感心してしまいました!

その権堂町の代名詞「権堂アーケード」を東へと進みます。

 

 

この通りの中ほどには、かつて「富貴楼(ふきろう)」や「青雲亭(せいうんてい)」と呼ばれた高級料亭があったそうです。

大正10年には「政友会北信八州大会」という会合の大懇親会が行われたそうで、なんと!約400人を収容すべく富貴楼と青雲亭の壁を打ち通して繋ぐことで宴会場を準備したとか!

宴会のために、お店の壁を壊すなんてそう簡単にできることではありませんよね!

当時の方々の熱い気持ちがとても伝わってきます!!

 

写真:長野市権堂町史より抜粋

 

このアーケードをさらに東へ進むと見えてくるのが「秋葉神社」です。

この神社、実は二度も移転しているそうなんです!

 

 

一度目は善光寺地震による火事での焼失。

二度目は「新地ロード(※)」と呼ばれる道路の直線化により現在の位置に至りました。

 

※「新地ロード」とは

ここからさらに東に進んだ現在の「西鶴賀通り」をさします。

この「新地ロード」の先には、明治11年に秋葉神社から5丁離して隔離されるような状態で開業した「鶴賀遊郭(現在の東鶴賀町)」がありました。

集まってきたのは、近場に開通した電車にで運ばれてくる山村の貧しい女性たち。

独自のルールによってれんが塀で覆われた敷地からは一人で外出することもできず、借金を返せぬまま一生を終える暗い歴史が繰り返されました。

ですがその後、終戦に伴い人権運動が強まり昭和33年に遊郭は終焉となりました。

 

 

ちなみに「富貴楼(ふきろう)」や「青雲亭(せいうんてい)」跡地では、当時の町の様子を知る参加者の皆さんでの話も盛り上がりました!

このまちあるきを通して出会った皆さんと、「町の話」をきっかけに交流が生まれる。

素敵すぎませんか!!

生き生きと話している皆さんを見て、私まで思わず笑顔になってしまいました☺

 

 

そしてまちあるきはいよいよ「西鶴賀町」へ。

まずは町の歴史と滝沢さんが社長を務めていらっしゃる「つばめタクシー」のお話を伺いました。

昔の街並みを踏まえた説明に、

「ここに昔○○があったよね~」

「そうですね。とても懐かしいですね。」

と、まちの話題でまたまた意気投合する参加者一同。

 

 

古き良き街並みが残る西鶴賀町ですが、時代の経過とともに空き家である「遊休不動産」の増加も目立つように…

そこで新たな取り組みとして「遊休不動産活用事業」の「西鶴賀エリアリノベーション」と呼ばれる取り組みが始まり、9軒の長屋の一角(C9)を拠点にさまざまな活動が展開されています。

 

 

最後は滝沢さんから地元・静岡県の銘茶とお菓子をご提供いただきティータイム。(ありがとうございます!)

普段なかなか頂けないお茶は、全員唸るおいしさでした。

参加してくださった方々は和やかな雰囲気の中、まちのことだけでなく色々な話題で盛り上がっていました。

 

 

新たな交流が生まれ、まちだけでなく人について知ることのできるまちあるき。

まだ参加されてない方は、ぜひ足を運んでみてはいかがですか?

 

滝沢さんありがとうございました!

 

(記事:奥田・小林・岸田・藤島/写真:赤塩)