REPORT

探訪 邦楽とお座敷文化

2021年2月15日

探訪 邦楽とお座敷文化

竹内 大介(たけうちだいすけ)週刊長野記者・箏曲師範

プロフィール
「ながの門前まちあるき」の同行取材記を月1回「週刊長野」に連載中。個人としては生田流箏曲と地歌を学び、演奏活動をしている。

コース案内
門前の邦楽(日本伝統音楽)にゆかりのある場所を巡ります。特に県内随一の花街だった権堂のお座敷文化(芸妓文化)にスポットを当て、邦楽の実演を聴く機会も設けます。往時の華やかさをしのびながら、邦楽の風情を楽しみましょう。

コース
楽茶れんが館

善光寺大本願
箏曲の流派の一つ「正派邦楽会」発祥の地

東町屋台蔵
祇園祭で使われる東町の屋台を収納

田面稲荷神社
田町の鎮守であり、芸妓や料亭の篤い信仰を集めたお稲荷さん

裏権堂通り/権堂アーケード通り/花柳通り/秋葉横丁
お座敷文化の名残を伝える権堂の街並み

こっとん
小唄や日本舞踊をするママの店
※コロナ対策のため「こっとん」から「権堂町公民館大広間」に変更になりました


◆出発式 楽茶レンガ館

「箏(そう)とは、おことの音楽の総称です。箏曲の古典的な音楽においては、箏と三絃(さんげん)、三味線の合奏曲でその大半が弾き歌いです」

◆善光寺大本願

「今や「正派邦楽会」は生田流箏曲の流派のひとつで、アメリカ支部を含む、全国11支部で組織する箏曲家のグループとしては最も大きな団体です」

「さかのぼること1913(大正2)年、初代家元・中島雅楽之都が善光寺大本願・大宮智栄上人の裁可を得て「正派生田流」をおこしたのが始まりです。」

案内人である竹内さんは伝統ある箏曲をしっかり後世に受け継いでいきたいと話されていました。正統な芸事を嗜んでいるだけではなく、伝承していこうと活動されているのですから厚みを感じます。私とは同世代なのですが、だんだんとかっこいいおじさんに見えてきました。ふつうは浅く芸事なんぞはじめませんでしょ?

ちなみに私はムエイタイを始めました←かなりの単細胞

「1978(昭和53)年に 「正派発祥の地」記念碑建立されました。」

↑過去に何度かまわった境内でしたが、まったくスルーしていました。文化に鈍いとはこおいうものに気づかないことなのですね。箏曲って「そうきょく」って読すそうですが、みなさんはハッキリと言えましたか、あやしいな~?

いい絵面になられている参加者がおられます。粋ですね~。テーマに合わせた服装でご参加されるのも「門前まちあるき」の楽しみ方の一つですね。

◆東町屋台蔵

 

初めて屋台を見られる参加者が興奮中!←鼻息、荒っ

「東町の屋台は1872(明治5)年に名工であった宮大工山嵜儀作(やまざきぎさく)のつくりでして、黒漆塗り、かざり金具をあちこちに使っています。先人伝説を題材とした数々の彫刻を見てもらうだけでも3倍楽しめます。」

「2輪車なので、そりゃ4輪車とは比較にならないほど重たいんです。だんだんと男衆が少なくなってきていて曳きまわすのが困難になってきました。時代なんですかね」

↑題材のなかで「瓢箪から駒」の場面もありましたが、駒って将棋の駒だと思うていたら笑われまっせ、馬ですから!←わたしはくるくる回すコマかと思ってました。私と同じだった人は出世はあきらめてください!

写真説明:東町屋台の天井を飾る彫刻「松に鷹」

参加者からのいろいろ質問が飛びかっていまして、なかなか幕引きできませんでした。

「この下を流れているのは鐘鋳川(かない川)、鐘鋳堰なのですが、裾花幹線導水路から取水した長用水路でして、善光寺平の用水の中では最古になるようです。開削はなんと平安時代とされています。農業をするにあたり大変貴重で重要な水でした。」

◆田面稲荷神社

「先の鐘鋳川(かない川)ですが、この辺りは稲荷神社がけっこう建立されています。この神社も水田に引水する用水のからみで江戸時代には農民の信仰が厚かったようです。」

「農民だけではなくて、立地がら当時の芸子さんや遊女のこころのよりどころになっていたようですね」

「こちらの玉垣をごらんください。ひと昔前ならだれもが一度は聞いたことのある料亭や芸子組合の名前がならんでますね。拝殿の案内板には「鐘鋳川」にちなんで「願いはなんでも叶う」とあります。しゃれた?語呂合わせですね」

↑わたしも旅記録を余所に、参加者に気づかれないように死角に入って手をすり合わせていました。←何願ったのかって?誰ひとり興味ねーだろ

◆裏権堂通り/権堂アーケード通り/花柳通り/秋葉横丁

↑裏権堂通りを旦那衆になったつもりでぶらつく男性参加者さん。もう一本西に郵便局がある表権堂通りがありますが、どちらかといえば、にぎやかだったのが裏だったそうです。裏が好き・・・男の本質は時代を経ても変わらないのですね。花街・権堂町の喧騒が響いてきます。

↑大正10年頃の権堂の地図です。のぞきこむと裏権堂通り(裏権堂町)に芸者屋が立ち並んでいますね。

↑現在の「みらい酒房」の場所に秋葉神社があったそうです。秋葉神社は場所を転々と変える数奇な運命をたどっています。いつの日かまた変わるのでしょうか?

「長野相生座・ロキシーは、120年余り前に活動写真を上映した、国内最古のともいわれている映画館です。いちばん最初の建物は1892(明治25)年に芝居小屋「千歳座」として建てられました」

「富貴楼は数年前までは料亭で、今の結婚式場ができるまでは昔女子たちのあこがれの結婚式場だったんですね。青雲亭は西隣にありました。」

また、お座敷がなくなってしまった~

だから絵になるって!

◆権堂公民館 大広間

案内人さんは最後に大舞台をご用意してくれました。いよいよ演奏が始まります。出演 春日とよ房衛(唄)/春日とよ信緒(三味線)/森田保廣(笛)/西田淳也(唄、鳴り物)/竹内敏大(三味線)でごらんください。「奴っこさんたよ~♪」ぴーひゃらら

「ハアコリャコリャ エー奴さんどちら行く ハアコリャコリャ♪ ピーひゃらら

小唄「白扇の」

端唄「木遣りくずし」

端唄「奴さん」

アンコールにこたえていただいて、さらにおいしいのを一曲いただしました。

最後に竹内さんは「みなさまに箏曲を聴いていただき感謝しております。ぜひともこの箏曲という文化が今後もこのまちに残こしていけたらなと願っています。そのためにも演奏させていただく機会がありましたらできる限りお手伝いをさせていただきながら皆様に喜んでもらいたいです」と言われました。

どんどんと文化というものが消えていく時代に、その文化が後世に受け継がれるために必要なことは、第一に再生が困難で残すべき価値があるということ。第二に真摯に伝えようとしている人材がおられるというになるでしょうか?その時々の権堂に縁をもった人たちがその特有な知恵、技、雰囲気?のバトンをつないできたことを想えば、権堂に今もわずかに息づく箏曲とお座敷文化の火を消してしまうのはもったいないと思うのは私だけではないはず。

竹内さん、出演者の皆様、文化継承への気づきと音の感動をありがとうございました。

 

 

 

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